金子 孚水(かねこ ふすい、1897年(明治30年)5月6日 ‐ 1978年(昭和53年)5月31日)は、大正時代の浮世絵商、版元。葛飾北斎の研究で知られる。 本名は金子清次。「孚水」との号は、「浮世絵」の「浮」の字の偏と旁を分解したもので、清次が25歳ごろの、画家・小杉未醒による命名とされる。
来歴
1897年(明治30年)5月6日、山形県米沢市に七人兄弟の三男として生まれる。父は煙草製造業で、しばしば東京へ行っては、絵双紙や草双紙、錦絵の類を買って帰った。幼少期より絵画に親しみ、少年時代は画家になることを夢見たこともあったという。16歳で上京、兄が勤めていた浮世絵商の 酒井好古堂に「小僧」として入店。ここでの修業時代に浮世絵愛好家の小林文七の知遇を得、教えも受けるようになった。
1924年(大正13年)9月、 東京市本郷区湯島同朋町(2006年現在、文京区湯島3丁目)に「孚水画房」を開店、浮世絵商として独立。以後、東京市下谷区西黒門町(2006年現在、台東区上野1丁目)にも店舗を開設、 高橋弘明、山田馬助を絵師とする新版画を製作、版行していた。また、1932年(昭和7年)からは雑誌『孚水ぶんこ』を発刊していた。しかしながら、1934年(昭和9年)5月におこった贋作事件(春峯庵事件)に関与(逮捕、起訴され、有罪判決)、さらには1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦もあり、浮世絵商および版元としての活動は出来なくなった。1943年(昭和18年)3月には浮世絵研究会を発足させる。
孚水は1913年(大正2年)頃から、国立の浮世絵美術館創設を提唱、1937年(昭和12年)、独立奔走、議会に働きかけるも、支那事変勃発により、頓挫、第二次世界大戦後の平和な時代になっても計画の進展はみられず、「日本古美術保護協会」を結成しようと試みるも、政府筋の賛同が得られずに終わった。その後、水田三喜男に強く国立浮世絵美術館開設のことを訴えるも、結局、実現できずに終わった。一方で、定期的に浮世絵展を開催するなど、浮世絵の顕彰と保護に尽力した。
晩年は、ソ連、中国での「葛飾北斎」展の開催、長野県小布施町の北斎館開設への尽力のほか、葛飾北斎作品の紹介、再発掘、研究に励んだ。1978年5月31日に肝硬変により台東区の自宅において死去。
著作
- 『秘蔵版浮世絵 火の巻』緑園書房、1963年
- 『秘蔵版浮世絵Ⅱ 清信の春秋絵巻』緑園書房、1964年
- 『浮世絵肉筆画集』全3巻 緑園書房、1964年
- 『秘蔵版浮世絵Ⅱ 細田栄之 女護が島絵巻』緑園書房、1965年
- 『歌麿の歌まくら秘画帖』画文堂、1967年
- 『小林和作家蔵浮世絵肉筆名品画集』画文堂、1969年
- 『北斎と浪千鳥秘画帖』画文堂、1969年
- 『肉筆葛飾北斎』(監修)毎日新聞社、1975年
- 『肉筆浮世絵集成』全2巻(監修)毎日新聞社、1977年
脚注
注釈
出典
参考文献
- 青木進三朗「この道ひとすじ浮世絵の道 金子孚水氏を偲ぶ」(pdf)『浮世絵芸術』第58巻、国際浮世絵学会、1978年、22-25頁、doi:10.34542/ukiyoeart.549、ISSN 0041-5979。
- 清水久男 編『こころにしみるなつかしい日本の風景 近代の浮世絵師・高橋松亭の世界』国書刊行会、2006年7月25日。ISBN 4-336-04784-7。
- 白崎英雄「ある北斎狂の一生――肉筆浮世絵に憑かれた金子孚水――」『芸術新潮』第29巻第10号、新潮社、1978年、174-182頁。
関連項目
- 浮世絵
- 新版画
外部リンク
- 金子孚水 - 東京文化財研究所




